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林牛之助がじゃま
▲今は無き田園コロシアムに登場したプリンストンガ。鍛え上げられた上腕が見事。が、なんか林牛之助(ミスター林)がじゃまだね。
ドロップキック!
▲「矢のような」とはこのことを言うのである。
これで、いったん終わる。
▲このイリミーネションタッグ戦、リングアナにコールされた順番通りに選手がハケていった。なんだかなぁ。
思いでのレスラー プリンストンガ 「KINGとお呼び!」

文:サディステックみかん

1997年の補足:僕がかつて所属していた早稲田大学プロレスリング総合ファンクラブ「ファイター」の機関誌「Fighter Super Suplex Vol.2」に寄稿した原稿。ペンネームはサディステック・ミカ・バンドのもじり。

(初出:Fighter Super Suplex Vol.2 1988年7月1日発行)


 全日本プロレスファンの私にとり会場でビックジョンテンタを見ることは大きな楽しみのひとつとなっている。デビューしたのが昨年の5月1日だから素晴らしい進歩ぶりである。そのテンタの活躍ぶりを目にするたびに思い出されるのが同じく角界から転向してきた外国人選手プリンストンガ、その人である。

 私が初めてトンガを見たのはテレビ画面を通しての対スタン・ハンセン戦(1982年2月)だった。その頃はまだプロレスを見出して日が浅かったのでこれと言った感もいだかずに見ていたのだろうが、今だにその試合を見たことはなぜかよく記憶している。

 そのトンガが海外遠征から帰国するとの報を知ったのが1984年4月の週刊プロレス誌上でである。今、手元にあるそれを見てみるとトンガがバックランドを蹴っている写真に「海外ではリングネームも『キング』に昇格する成長ぶりだ」との説明が付いているだけであるが、まだアメリカマット界は大いなる夢の宝庫であり、また維新軍により(同週刊プロレス誌上ではあの5対5勝ち抜き戦と旧UWFの前田対藤原(蔵前国技館)そして天龍対阿修羅原を報じている)大いに盛り上がっていた新日本プロレスに比べていささか影の薄かった全日本プロレスに肩入れしていた私はこれで新日ファン(連中のあのころの鼻息の荒さと言ったら、まるでゴジラの放射能のごとくだったのだ)にいくらかの反撃できると思ったのかやたらと胸膨らませてしまったのだった。

 トンガが参加した1984年グランドチャンピオンカーニバル2、このシリーズ、私はジャンボ鶴田とリック・フレアーのNWA、AWAダブルタイトル戦が予定されていた田園コロシアム大会のチケットを早々に買い込み、なかなか発表されないトンガの対戦相手を「はたしてハーリー・レイスだろうか。」などと考えていた。しかし事態は急転、ジャンボ鶴田はAWA王座からすべり落ち、NWA王者もリック・フレアーからケリー・フォン・エリックに変わり、なんやかんやでトンガの相手は思いもかけなかったバス・タイラーになってしまったのだ。

 5月22日、田園コロシアム。この日は寒いのなんの……。これも第7試合でトンガさえ出てくれば……と言うことでひたすらに耐えていた。

 ついに、トンガの登場、そしてリングアナのコール……。「プリンス・トンガ」。てっきり「キング(コング)トンガ」とコールされるとばかりに思いこんでいた私の出鼻はここでくじかれてしまった。これで、「ああ、全日本プロレスはトンガを売り出す気はないんだなぁ。」とすっかり醒めてしまった。確かに試合では凄まじいドロップキックとトラースキックを見せてはくれたが、この全日本プロレスの対応にはすっかり白けてしまった。

 6月14日、あの蔵前国技館大暴動の晩、私は後楽園ホールにいた。全日本プロレスグランドチャンピオンカーニバル2最終戦、4対4イリミネーションマッチである。この試合は、同シリーズを結局のところバス・タイラーや、ジプシー・ジョーばかりを相手に消化したトンガの、今のところの日本マット最終戦である。凱旋帰国の晴れやかなシリーズの最終戦でトンガはあっけなくシンのコブラクローでリングを降りた。

1997年の補足:「6月14日、あの蔵前国技館大暴動の晩」、第2回IWGPリーグ最終戦で行われたアントニオ猪木対ハルク・ホーガン戦に長州力が介入したことが引き金となって発生した暴動のこと。その裏興行となった後楽園ホールで行われた「4対4イリミネーションマッチ」は、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、プリンス・トンガ対タイガージットシン、上田馬之助、鶴見五郎、バズタイラーである。同時にマイティー井上対ジプシージョーのNWAインターナショナルジュニアヘビー級選手権試合も行われた。

 私が最後にトンガを見たのは、テレビ画面を通しての対リック・マーテル戦(1984年10月頃か)だった。キングトンガは生き生きと戦っていた。彼にはアメリカマットが合っているのだろうか。かつて、全日本プロレスはトンガを外国マットで育てると方針を語った。そして、トンガは今あのころとはすっかり変わってしまったN.Y.マットでアイランダーとしてやっている。

1997年の補足:このあたり、全く文意の伝わりにくい綴り方で困ってしまう(笑)。「テレビ画面」とは当時テレビ東京で放送されていた「世界のプロレス」のこと。「すっかり変わってしまったN.Y.マット」とは、1985年頃からN.Y.を拠点とするWWFの拡大戦略が開始されたことによる。

 私がアクティブなプロレスファンとしていられるのもそう長いことではあるまい。何とかもう一度彼を見たい。今度こそ、キングトンガとして。

1997年の補足:「私がアクティブなプロレスファンとして……」この頃は本気でそう思っていたのだが、今も昔とそれほど変わらないペースでプロレスを見ている(笑)。「今度こそ、キングトンガとして。」プリンストンガはキングハクとなってSWS闘会始91に参加した。僕はこのシリーズを東京ベイNKホール、静岡産業館、露橋スポーツセンターと追っかけた。そして、露橋では天龍対キングハクが実現したのだが……。試合は大スベリとなり、僕は帰りの新幹線車中で嘆きのはがきをプロレスファンの友人へと書きつづった。その後、ハクはSWS、WARの常連となり随分と天龍とのタフな試合を見せてくれたが、現在はWCWマットに定着している。


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